視覚の世界
興味ある本にぶつかった。山口真美さんという中央大学の心理学の先生の著わした「視覚世界の謎に迫るー脳と視覚の実験心理学」(講談社)という著書である。赤ちゃんの視覚の発達を丹念に追うことで、脳のなかに視覚世界がつくり出される複雑なメカニズムを解明した好著で、目から入ってくる情報を人がどのように認識して視覚世界を形成しているのか、それこそ目を見張る研究成果や学説が紹介されている。
その中で述べられている一つの内容であるが、網膜に入ってくる情報は2次元であるにもかかわらず、われわれは奥行きのある3次元の世界を認識することによって生活している。この本によると奥行きを認識するはたらきについて、両眼があることによって右と左で少しだけ違う景色を見ていること、遠近法の学習効果、それと物体と影の関係などが指摘されているが、ここでは奥行きの認識に影響する影について考えてみたい。写真―1はスギの細胞の内側表面を数万倍まで拡大した電子顕微鏡写真であるが、今では古典的方法となったレプリカ法という手段で観察したものである。木材に真空中で陰影をつけるために金属を蒸着し、次いでカーボン被膜を形成させた後、型のついた薄膜を木材からはく離して見たものである。円形状のものが凹んで見えると思う。次にこの写真を上下逆にして見て頂きたい。そうすると、先ほどの凹んでいたものが突き出て見えることと思う。これが正しくて、細胞の内側表面にある“いぼ状層”という出っ張りである。すなわち上から光が当たった状態でないと凹凸の区別は難しいということになる。山口さんが紹介している説によると、赤ちゃんでも同じように立体認識することから、光は上から当たるものだという地球の状況を、人は生まれつきに獲得しているらしい。
写真1 スギの細胞の内側表面の電子顕微鏡写真(実は上下を逆にして見て欲しい)
逆の画像
人種効果というのも興味ある話である。私もそうだが”外国人“の顔の区別が苦手であり、映画俳優はもちろんのこと、国際会議に出かけてもなかなか名前と顔が一致しない。間違って話しかけて恥ずかしく思う経験も一度や二度ではない。この原因は人種によって顔を記憶するときに重視するポイントが異なっていて、日本人では効果的な区別点として機能しているものの、他の人種を見るときにもそれが作用してしまうことによるとされている。しかし、人が顔を見抜く力は抜群で、これはコンピューターには到底困難と思われている。長年会っていなかった友人でも久々に同窓会などで会うとすぐに認識したり、沢山の人で混雑する場所でもはっと知った人を発見したりするのはその例である。そういえば、テレビのニュース番組の映像で長年捜し求めていた人物を発見するという推理小説もあったようだ。
さらにこの本の中では、顔のもつ情報は限られたもので、髪型や服装なども個人認識では貴重な情報であるがこれは頻繁に変わるので、われわれは眉や目、鼻や口といった限定された情報でたくさんの顔を認識していると述べている。しかも、目鼻口の並びが重要な因子で、壁や天井の染みに「人の顔」をみつけてびっくりするのはそのためであるらしい。東南アジアには“人面カメムシ”という背中の模様が人の顔そっくりの虫がいるが、これも人の目鼻口の配置パターンに似た模様を、この昆虫はたまたま備えていると考えると納得しやすい。また、林学や林産学を学ばれた方は、樹木識別とか標本による樹種鑑定を勉学されたことと思うが、一体にこういった識別能力は人によって得手不得手がある。確かに葉の形とか年輪の濃淡とかの識別根拠を覚えていても、瞬時に木の名前を言い当てる能力はそれと別で、先ほどの顔の識別と同様な判断力によるのではないだろうか。
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